レビュー - 星川淳 INNERNET WORKS

この物語をベースにした舞台をみたいと思う

工藤竜太(NEXTRAVELER Producer)

 

この本は難しい。 時間と空間、そして、人物が入れ替わり、脳が混乱する。

1回読んでも何が何やら、わからない。

 

ということは、何度も何度も読める物語で、
異国で、どこかの国の船員が置いて行ったペーパーバックを
めくるような楽しみがある。

 

この本は荒削りだ。

 

ということは、この物語は深く、濃く、
文章に留まらないということだ。

 

僕は、どこかの国の小さな劇場で、
この物語をベースにした舞台をみたいと思う。

 

種子島に住んだ事のある人間として。

できれば、ヴェニスの商人の舞台、イタリア、ヴェネツィアで。

 

ヴェネツィアには、大航海時代の地図があり、
そこには「種子島」の名前が記載されている。

 

 

わたしのロマンも、「タマサイ」に乗って太平洋を漕ぎ渡った

植本阿良樹(建築家)

 

現代文明の中で、最古の文明といわれるシュメール文明、わたしは中学時代にその名を知ってから、ずっと気になって仕方がない。それは、「シュメール文明」という、ウルやウルクなどの都市遺跡や楔形文字に代表される文字の使用が認められているにもかかわらず、どんな民族だったのかが未だに解明されていないことに、限りないロマンを感じるからだ。


ペトログラフ(ペトログリフ、岩刻文字)という、岩に刻まれた文字や文様が日本にも数多く存在しているという。そして、日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏の研究によると日本に存在するペトログラフのうちの多くがシュメール古拙文字で、中でも山口県下関市彦島のものはハワイで発見されたものと完全に同じ系統の文字であるということだ。


それらのことから、吉田氏は縄文文化の中の一部(曽畑式縄文土器など)は、海洋民族となったシュメール人が日本やハワイに伝えたのではないかと憶測している。


あの、あこがれのシュメール人たちが日本にも渡来していた! そう考えるだけでわたしの心は躍ったのである。


そして今回、わたしの敬愛する星川先輩が「タマサイ」の中で、ターコイズの玉を一方の主人公とし、それを伝えた人たちは現在定説となっているものよりずっと古くから太平洋を行き来していたと推測している。


ネイティブアメリカンの一部=ポリネシア人の一部=縄文人の一部=海洋民族となったシュメール人。


氷河期が終わり、海面上昇によってその居住地を失った一部のシュメール人たちは海洋民族となり、彼らの宝石ターコイズとともに新しい安住の地を求めて太平洋に向かった。


わたしの「ロマン」も、「タマサイ」に乗って、太平洋を漕ぎ渡ったのであった

ひとの想像力を高く羽ばたかせる

ながたかずひさ(脚本家)

 

これは曼荼羅です。

 

戦国期、恋しい少女を追い種子島を旅立つ少年りゅうた。現代、不思議な縁に導かれ魂の旅路をゆくのは前作でもお馴染みユキ。この二人を中心に数多くの人々が幾重にも織り重ねる、愛と冒険、伝承と探求の旅路。

 

前作『ベーリンジアの記憶』から構想・制作都合18年、作者・星川先生の知識と経験がミッチリと詰め込みに押し込まれ、極彩色のタペストリーになってる様、そして要素要素が時には相同、時には入れ子、つまりフラクタル構造でお互いに影響を与えあっている様は、まさに「曼荼羅」としか言いようがありません。

 

 

どの要素一点を切り出してご紹介してもいわゆるネタバレになり、この労作を愉しむ喜びをスポイルしそうで、非常に感想文が書きにくいです。そのぐらい、各要素が見事なまでに玄妙に絡み合っています。しかしこの作品、上記「あとがき」にありますように構成を固めずに書き始められたとのことで、やっぱり本当に神秘的なものは、人知や意識を超えたところからしか生まれないようです。

 

 

今回の主な「旅」は大海原を渡る、それも円環的なもの。刳り舟での孤独な漂流から海の隊商、新天地を求めた決死の冒険から黄金を目指すイスパニアの外洋航路船まで、思う存分潮の匂いを嗅ぐことができます。

 

陸路もバラエティ豊か、アメリカ南西部・砂漠の隠れ谷から屋久島、クイーン・シャーロット諸島、ハワイ、広島、ロスアラモス。

 

ほら興味が湧いてきた(笑)

 

旅の道連れもキャラの立った個性派揃い、群像劇として俯瞰で眺めるもよし、誰かになりきって旅を共にするもよし。

 

僕は個人的には不思議な老人・デネに心惹かれました。彼の旅路はわずかな間、一行と重なりあったわけですが、本来はどんな旅だったんだろう……と想像するだけでも、一冊の本になりそうです。

 

 

さらに加えて、不思議な「もの」たちも彼らを導きます。そのひとつが、タイトルにもなっている「タマサイ」。

 

このタマサイという言葉一つにも、「魂彩」という当てられた漢字でおわかりのように、さまざまな物語と想いが籠められています。

 

 

全編、こんな感じ。そりゃ20年近くかかろうというものです。

 

 

最新の量子論には「すべての状態が重ね合わされている」というイメージがあって、SF系の作家さん達が現在過去未来あるいは平行世界を行き来するような物語を綴っていますが、「タマサイ」に触れるエレンやレタの姿勢や言葉を聞いていますと、ようやく現代人はそのイメージを思い出したのか、とさえ思います。

 

昔の人は、みんなそんなこと知っていた。その石ひとつが、その樹一本が、そしてもちろんその人ひとりが、どこから来てどこへ行くのか。どんな物語を紡いできて、紡いでゆくのか。

 

そういうイメージに導かれて、降りかかる不思議や不条理、つまり運命を呑み込んで力強く生きる登場人物たちの姿に、少し、目の前の霞が晴れるようです。

 

 

もちろん冒険譚と恋愛譚が中心なのですが、前作にもまして幅広い読み方ができます。各章の枕にイメージを助走させるための簡単なレクチャーがあるのですが、これだけ拾い読みしてもそのスケールとバラエティに満腹になるほど。まあとにかく繰り返しますが密度と濃度の濃い作品で、しかもそれが借り物切り貼りの知識ではなく身体性で裏打ちされてるから手に負えない。ただただ脱帽です。

 

芸術なんてものは創った当人が悦んでいればいいものだと思うのですが、もしあえて客観的評価などという野暮なものを持ち出すとするなら、

 

「ひとの想像力を高く羽ばたかせる」

 

ものが「良いもの」でしょう。

 

まちがいなく良いものです。

 

 

僕は深尾葉子先生に「ながたさんこの本を読みなされ!」と見本誌を手渡されたのですが、読み終えた今、つまりこの本自身が「タマサイ」なんだなあ、と思います。

 

 

【ブログ「ユルネバ!」より許可を得て転載】

http://rakken.sblo.jp/article/79293293.html

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